地域の信仰や教育の担い手
東福寺の創建は不詳(平安時代末期との説もある)だが、
江戸時代前期の古文書には「本寺下野國河内郡宇都宮粉河寺」
「同國同郡戸上村瑠璃光山醫王院東福寺」とあり、
明治中期まで宇都宮にあった粉河寺(現在は宝蔵寺に合併、廃寺)の
末寺であったことが分かる。
また天和2年(1682)作成の東福寺過去帳縁起には
「東福寺中興三智坊諶舜書之」と記されていることから、
一時期廃れていた寺がこの時期に再興されたと考えられる。
同寺の本尊は木造(寄木造)の阿弥陀如来坐像。
制作年代は不明だが、平成24年(2012)に修復した際、内部に書かれた文言から、
嘉永2年(1849)に宇都宮の仏師高田運刻により修復されていることがわかった。
また脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩は、
その翌年に高田運刻らにより新たに造られたものである。
本堂には明治5年(1872)に姿川第二小学校の前身とされる「教童学舎」が開設され、
下砥上・上砥上・下欠下・上欠下・鶴田の五か村の子供たちの教育の場となった。
また昭和30年代までは下砥上の公民館的役割(寄合所)も果たしていた。
現在の本堂は、江戸後期に建てられたもの。
また、境内の地蔵堂にまつられている石造の地蔵は、江戸時代中期のものである。
境内地は閑静で美しく、春には山門のしだれ桜が、初夏には藤の花が咲き誇る。