旧石田村の心のよりどころ
感應寺は室町時代の永享2年(1430)、6代将軍足利義教の命により円海法印が開いた。
当時、百石の朱印地を賜り、貴顕名門の篤い信仰を集めたと伝えられている。
戦国時代の元亀天正の頃(1570 ~1592)に伽藍が兵火にあい、
ことごとく焼失したが間もなく再建された。
戦乱の時代に、不安を抱えて生きて行かざるを得なかった人々の
心のよりどころとなっていた。
特に地蔵尊は命を守り育てる仏様として信仰を集めたという。
その後、江戸初期の寛文年間(1661~1673)に、
第17代住職豪俊和尚が、日光輪王寺浄土院より下って中興し現在まで続いている。
江戸時代末期の嘉永5年(1852)の文書
「本末仕訳御改書上帳野州河内郡石田村感應寺」の記録には、
雀宮村の正光寺、東谷村の薬王院、下横田村の慈眼寺、下反町村の円蔵寺、
上御田村の海蔵寺、石田村の観音寺、川中子村の多聞院、落合村の西光寺など、
総計9か寺の名が見える。
石田村だけでなく、広い地域の信仰を守り育てて来た歴史が感應寺にはある。
広い境内には本堂や不動堂、鐘楼が建ち、草木が訪れた人々に憩いを与えている。